よく行く定食屋さんの大将(50歳代)と話してて、大将曰く、
「最近、何見ても、感動しなくなっちゃったよ。
巨人が負けても、あ、負けてるなって・・・それだけしか思わなくなっちゃったよ。
なんか、自分の先が見えちゃってるっていうか・・・」
そんなこと言いながら、ハンバーグカレーを頼んだのに、ハンバーグ定食を出された。


「若いときって、『俺は何にでもなれる!何でも出来る!』みたいな自分の将来に対する『万能感』みたいのありましたよね。
・・・あ、定食の方で、全然OKっすよ。」
「万能感か・・・なんの根拠もないんだけどね。
・・・ごめんね。年取ると、ぼーっとしちゃうから、カレーの値段でいいよ。」
「バックボーンのない自信って何だったんでしょうね、
・・・カレーと定食の値段同じっすよ・・・」
年を取ると言うことは、老いるということは、良くも悪くも、余計な修飾が取れてモノの本質が見えると言うことだと思っていた。
それは確かにそうなのだけれど、畏れは、老いに対するものではなく、自らの可能性や力量に対するもののようだ。
幾ばくかの蓄えや地位や安定を手に入れるために、汗と涙で頑張ってきた自らの反省を振り返るとき、
「俺が欲しかったモノは本当にこれなのか?」
「いや、違う。」
「ならば、今持っている安定と引き替えに何かを求める作業をやり直せるのか?」
「昔の俺ならそうしただろうけれど、今の俺には、情熱がない」
そんな会話が幾度となく繰り返されるのだろう。
やーね。ほんとにね。
という私は、43歳・・・

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